山梨県鳴沢村
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2010年3月4日 更新
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鳴沢村のなぜなぜ物語
鳴沢村内の地名の由来等の説明です。
(1)ジラゴンノの意味は?
我が国の古代からの歴史は、兄弟の相克物語が多いと言われています。古くは海幸(長兄)山幸(次子)の争いの物語があります。この物語は、山幸が海神(豊玉彦)の娘・豊玉媛(とよたまひめ)と結婚、釣針と潮盈珠(しおみちのたま)・潮乾珠(しおひのたま)を得て兄を降伏させたという話になっています。
しかし甲斐国では、次男より長兄の聖性が守られているところでした。
古代の道で、甲州と駿州を結ぶ道は「御坂路(鎌倉街道)」、「河内路」それに「若彦路」でした。この内、最も重要なのが真ん中を走る「若彦路」でありました。鳥坂峠、大石峠を経て大田和から人穴に向かう道沿いにある石造物=「薬明王大権現」の石碑(建長五年< 1253>)は若彦路の道しるべとして建立されたものです。
富士山は古代、長兄でした。つまり太郎です。ですから富士山には、北口本宮 冨士浅間神社にある「太郎杉」。須走口で祀られていた「太郎天狗」。それを祀る建物を「太郎坊」といいました。この太郎の中世風の読み方が「タラ」であり、次男は「ジラ」です。
つまり、富士山が「長兄」「太郎」である以上、次男の介入する余地はありません。そこで、社会的、歴史的に甲州→駿河を通っていくには、真ん中の街道(若彦路)は長兄(太郎神)の領地を拝借するしかありません。この拝借を漢語で「権能<ごんのう>」といいます。悪く言えば「簒奪<さんだつ>」の意味。現代風に言えば「次郎による太郎の地の間借り」これが「次郎権能」です。因みに鳴沢村ではこの「若彦路」を「金王路」と呼んでいました。“冨士山=太郎持ちの地所を次郎が拝借した所または路”。これがジラゴンノの意味になるのでしょうか。(この内容は村にある魔王天神社の現地研究をされていたときにお会いした信仰史家の竹内健先生にご教示頂きました。)
大辞泉 国語辞典では
 けん‐のう【権能】 法律上、ある事柄について権利を主張し、行使できる能力。

鳴沢村には、コンノと呼ばれる地名が、ジラゴンノのほか「今野」「大夫今野」の三箇所があります。江戸時代末期の絵図(渡辺治徳氏蔵)には「蛇野」と書いて、ジラゴンノとルビがついています。
それに、冨士ヶ嶺にも中野根野、富士吉田市新屋にも根野があります。
ところで富士山は平安時代から噴火の度に朝廷は官位を挙げ、(従三位→正三位→従二位)神の山の怒りを鎮めようとしてきました。つまり富士山は神の山とされ、それを取り巻く裾野も神野と呼ばれていました。(大日本地名辞書 明治35年刊)神野がなまって「コンノ」になったとも考えられるでしょうか。また、噴出した溶岩の「シロ→露出地形」を冠したものが「シラ」に変わったとも想像出来ます。
このように、「ジラゴンノ」の名前は恐竜の名前のようにさえ思え、訪れた人の誰でもが由来を聞きたくなる地名で、鳴沢村の永遠の謎になっています。
(2) 富士山山頂はどこのもの?
富士山頂はどこの所有になっているのでしょう。
@もちろん山が県名に付く山梨県。
A万葉集に「駿河なる不盡の高嶺は」とあるから、静岡県。
B山梨県では鳴沢村・富士吉田市上吉田、静岡県側では、御殿場市中畑・富士宮市北山と小山町須走が山頂まで行政区域に入っていますが、残念ながら、どこの県、市町村のものではない。

B番が正解です。富士山8合目より上は、富士山本宮浅間大社の所有で神社の奥宮境内地になっています。

富士山本宮浅間大社は全国に1,300社ほどある浅間神社の総本宮です。(因みに全国には八万一千社ほどの神社がありますが、一番多いのはやはりお稲荷さんで、続いて八幡さまで、そしてお伊勢さん、天神さまです。)
1)富士山本宮浅間大社の伝承では、日本武尊が駿河国で野火の難に遭ったときに、浅間大神に祈念して難を逃れたので、浅間大神を祀ったといいます。
創建は806年(大同元年)、坂上田村麻呂が現在地の大宮の地に社殿を造営し、浅間大神を山宮より遷座した。中世にも源頼朝が行った富士の巻狩りの際、武将を率いて富士山本宮浅間大社に詣き、流鏑馬を行ったという。
また、慶長14年(1609)、徳川家康は富士山頂上の本宮の支配を認めた。
2)その後、明治維新を経て、政府は太政官布告によって、富士山頂上境内地は国有地に編入された。
3)1957年浅間大社側は、徳川家康が山頂を大社に寄進したとする古文書などを証拠に、東海財務局長を相手取り名古屋高裁に提訴。
4)裁判で国側は「富士山は国民のものという国民感情がある」と公益上の必要性を主張したが、1、2審とも神社側が勝訴。1974年4月9日に最高裁で確定。八合目以上404万uの土地の内、測候所等3万7千uを除いて約385万uの所有権を大社に認めた。
5)2004年12月、財務省東海財務局が、神社の所有権を認めた最高裁判決に基づき、土地を無償壌与する通知書を神社に交付した。しかし、富士山頂をめぐっては山梨、静岡両県の境界問題は依然、未解決のままである。
12月17日には財務局の職員らが大社を訪れ、渡辺新宮司に譲与通知書を手渡した。渡辺宮司は「これで所有権の手続きは済んだ。県境問題は県民感情もあるので登記に向け時間をかけて解決したい」と話している。
(3) 富士山は「○合目」というのはなぜ?
「冨士の研究」(全6巻 富士山本宮浅間神社社務所 昭和3年刊)によると…
@ 富士山は升に入れた米を地上にあけた時の形に似ているので、枡目を用いて1里を1合とした。
A 山頂のことを御鉢といい、仏教用語でもお供えする米を御鉢料ということから米にたとえて「合」で示した。
B 梵語の「劫」が「合」に変化した。富士登山の苦しさを人生の苦難に見立てて、その難しさを劫数→合目で表した。(億劫の語源になっている)
C 富士山の祭神は木花開耶姫という女神であるので、生命誕生、胎生十ヶ月を十合に分けた。
D 昔から洪水の水量をたとえるのに「何合何勺の水」といったので、これに当てはめた。

そのほかにも、
* 夜道の提灯に使う油が一合燃え尽きる道のりで区切った。
* 米を少しずつばらまいて一合なくなる道のりで区切った。
* 富士山を巨大な器に見立てて麓から10等分して決めた。
というように諸説あって、結局のところ真偽のほどはわかりませんが、富士山頂経ヶ岳より出土した富士山由来記にある「富士山の十種異名」に10種類の富士山の呼び方がのっていますが、その中に穀聚山があります。これは、米穀を取り集め、これを積み上げた形に似ているためであり、米を手にすくいサラサラとこぼすと富士山型になることから付けられたのでしょう。つまり、@・Aの米に因む説あたりが、合目の由来として自然に感じられます。
(4)鳴沢の地名の由来は?
鳴沢の地名は、「万葉集」から?。
 万葉集巻十四東歌に
 さ寝らくは 玉の緒ばかり 恋ふらくは 冨士の高嶺の 鳴沢の如 (万葉仮名では奈流佐波)があります。意味は、“共寝することは玉の紐ほどに短く、別れて恋しいことは冨士の鳴沢のように激しいことよ。”
 この中で鳴沢の説明として“水流のとどろく沢の意味で、西湖の南の鳴沢とする説と落石のとどろく大沢とする説あり”と講談社文庫 万葉集の中で、中西 進先生は書いています。(中西進先生には、紅葉台に建立した“万葉歌碑”<なまよみの甲斐の国で始まる高橋虫麻呂の長歌>の揮毫をお願いし、平成4年5月13日、中西先生には、本村にお越し頂き、除幕式と『不儘の鳴沢』と題して講演会を行いました。)

 そのほか鳴沢の地名の由来としては
@ 富士山から吹き下ろす寒い東風「ナライ」風の吹き抜ける沢という意味からの命名。(ふるさと地名考 山梨新報社)
A この辺りに「鳴滝」という大きな滝があって、その水が流れ出す沢だから鳴沢といった。(甲斐名勝志)
B 鳴沢とは富士山頂にあった池の名で、そこから流れ下る水の音が鳴り響いたので鳴沢と呼ばれる(甲斐国志)
C 鳴沢は「鳴沙」で富士山から転がり落ちる砂礫の音が雷鳴のように聞こえたので鳴沢という地名が起こった。(甲斐叢記)
などありますが、
 甲斐国志に、
「大田川 残簡風土記曰く 都留郡西限大田川トアリ成沢村ノ別村二大田和ト云ウアリ…」とありますが、貞観6年(三代実録7月17日の条)に富士山が再び活動を始め 溶岩、流出し「剗の海」は分断されて本栖湖・西湖・精進湖となりました。その剗の海に通ずる大田川から流れ出した水が滝となり川となり、流れ下る大沢を鳴沢と呼んだという説が一般的かと思われます。(続古今和歌集 後鳥羽院。新拾遺 慈月。水夫集 俊成らの詠じた歌中になるさわと出てきますが、流れ下る水音や水烟の表現に使われています。) 
(5)恐ろしい魔王は、村の人を厄災から守ってくれる力強い味方の神社
この神社は昼間も暗く老木が鬱蒼としている。昔から魔王の山の草や木を取ったり切ったりすると祟りがあると畏敬されてきた。つい先頃も魔王さまの神域にかかる村道の道幅を広げるため神社の宮司さんは神意を伺うため御占(みうら)を行ってから神事や工事の着工をした程。   仏教の宇宙観では、『阿毘達磨倶舎論』(あびだつまくしゃろん)によると、この世の最下層は風輪(風の層)その上に水の層(水輪)があり更にこの上に金輪(土の層)がある。この金輪の上に下の図のような諸天が、円筒形に立っています。この天部の下から六番目の他化自在天(たけじざいてん)を、魔王天とも言い、六欲天の中で最上の天、天上界の第六天。この天に生まれた者は他の天の者が作ったものを自在に自己の楽として受けとる事が出来るとされる。魔天、他化天、第六天とも。  (三省堂『大辞林』より引用)
 <この金輪の果ては滝のようになっており、この際(きわ)を金輪際(こんりんざい)と呼び、一番上の最高位非想非非想処天(ひそうひひそうじょてん)を有頂天と呼びます。>

 クリックすると拡大されます                               大橋俊雄著「仏教の宇宙」 東京美術より引用
 

魔王天神社は、神仏混淆の神社で、この魔王天という仏教の世界観を表す天部の文字をつけた神社の名称になっている。また、ここは古い神社形態を残しており、本殿を持たず、裏の魔王の山がご神体となっている。有名なところでは奈良県にある三輪山がこの形態であり大神神社(おおみわじんじゃ)の神奈備(かんなび 神体山)として崇敬されている。山そのものが御神体のため、大神神社は本殿を持たない。……中世の記録では三輪山には第六天魔王童子がお仕えするとされている。<三輪社平等寺資料>。この三輪山も山体を神とする自然崇拝を根本とする古代信仰の延長上にあるものとされており、神殿を持っていないことが特徴である。なお、富士山信仰に係わる神社では富士宮市の山宮浅間神社があるが、この神社は富士山をご神体としている。

 

 魔王天神社は『日本社寺名鑑』によると、享禄元年(1526年)に西八代郡下部町の熊野神社近くに所在したが、神慮により現在位置に遷座したと伝えられている。この神社名は江戸末期の鳴沢村絵図(渡辺治徳氏蔵)には大六天と記されている。魔王天も大六天も同義と考えられている。ちなみに慶応4年に修験者から提出された明細書(『甲斐国社記・寺記』)によると甲斐国内の修験寺の内に大六天7社、大録天宮2社、魔王天1社が所在していたという。しかし、鳴沢村の大六天はこの明細には見られない。 この神社のご祭神は、剣の神様で経津主神(ふつぬしのかみ)……藁製の太く張られた綱を剣で切るとき「フツ」と言うことからこの名が付いたと言われる。天孫降臨の際、国津神・大国主命親子に国を譲るようにともう一人の軍神・建御雷之男神(たけみかづちのかみ)と共に掛け合った神様。……  

 

村の人は「魔王天」イコール「第六天」から「大六天」「ダイロクテン」の派生からオダイローサマと親しみを込めて呼び、剣の神は風を、切り分けることが出来ると考え、台風シーズンには作物を風の害から守ってくれる風の神様として信仰が厚かった。境内には、当時、罹患すると高熱を出し死に至るとされた恐ろしい病 疱瘡(ほうそう 天然痘)神の小祠が祀られ、村人を流行病(はやりやまい)の恐怖から村を見下ろす高台から守護していた。 本殿が無く拝殿のみの神社形態であるが、拝殿の後ろには、おびただしい宝剣が御幣の代わりに祀られている。大きい三叉戟(さんさげき)が3本祀られている。また、魔王という恐ろしい名の神であること、経津主神という剣を神格化した武神であることから、先の大戦には、弾よけの神、武運長久の神として近郷近在から信仰をあつめた。しかし庶民にとっては、表向きは武運長久を祈り、本音のところは兵役逃れの神として崇められたのであろう。 古代史の研究家によると大六天・魔王天の神社はかなりの数あったといわれているが、廃仏毀釈の折り、魔王天のような天部の名のついた仏教的神社は廃止された。神社名は改名を余儀なくされ、天神社(祭神 菅原道真 すがわらのみちざね)に改変されたという。しかし、本村の魔王社は、村人が魔王さまの名前を変えることなど「とんでもなく」恐れ多いとしてか、中央からはずれた鄙の神社であったため目こぼしがあったのか、そのために現代までこの神社名で残ってきたと想像される。

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